歴史とともに歩むラトビアの11月11日

この季節、ラトビアの人々は国旗を掲げてキャンドルを灯し、過去に自由を守るため戦った英雄たちに思いを馳せる。ラーチュプレシスの日に向けて、街は誇りと感謝の気持ちに包まれ、ラトビアの国旗と同じ真っ赤な色のキャンドルの光で街は満ちた。
歴史とともに歩むラトビアの11月11日
著者:ラトビアgram fellow さえきあき
公開日:2025年1月5日
11月はラトビアの歴史に欠かせない月
近年ラトビアでは11月は「愛国者月間」と非公式に呼ばれるようになった。その理由は、11日はラーチュプレシスの日(後述)と18日の独立記念日という、ラトビアにとって重要な日とそれに伴った様々なイベントが同月中に開かれるからだ。
普段は愛国心をそこまであらわにすることのないラトビア人だが、その日が近づくにつれて家やお店の前に国旗を掲揚し始め、記念日を大事にしていることが伝わってくる。
11月11日は何の日?
ラトビアの独立記念日は11月18日で、11日は祝日ではない。この日が何の日かというと、ラトビアが独立を勝ち取った自由を守るために戦死した人々を追悼する記念日「Lāčplēsis Diena」である(Lāčplēsisはラトビアの神話に登場する戦士の英雄の名)。 この日はリガ城をはじめとするラトビア国内の公共の場所で礼拝やパレード、ろうそくの点灯が行われ、戦没者の墓に献花が行われる。
他の国では11月11日は第一次世界大戦末期の1918年の休戦記念日として行事が執り行われるが、ラトビアの場合は事情が少し異なる。
第一次世界大戦中、ラトビアの領土はドイツに占領されていた。戦争終結後も駐留していたドイツ軍には、連合軍からラトビア軍と協力するよう命令が下された。しかし1919年4月にドイツ軍はラトビア軍に反旗を翻し、再びラトビアを支配下に置こうとしたのである。その後1919年の秋に、ドイツとロシアが連合してラトビアに再侵攻した。劣勢に立たされたラトビア軍であったが、果敢に戦い抜き、同年11月11日に勝利を収めたのである。
この戦いでラトビアは743人の兵士を失ったという。この戦いが終わった後も軍事衝突が相当期間続き、最終的にはドイツとソビエト・ロシアとの停戦協定が結ばれた。 Lāčplēsis Dayは歴史的な記念日であるだけでなく、それ以来今日に至るまで軍隊に従事するすべての人々の奉仕と犠牲に対する感謝の意を表す日でもある。
街や行事の様子
いつもと違って目を惹いたのが、掲揚される国旗の多いこと。アパート、お店などほとんどすべての建物が国旗を掲揚し、街中が国旗に溢れていた。

夜には首都リガの中心地に流れる川沿いにトーチやキャンドルを持った人が集まり、川沿いはいつもとは異なる光景が見られた。市内で一番目立つ「自由の記念碑」周辺は式典や行事があるたびに人だかりができ、この日も例に漏れずたくさんの人が集まった。
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こんなトーチどこで買うのだという疑問が生まれるが、ラトビアのスーパーチェ―ン「Rimi」がこの日のために販売していた。SNSで広告を打ち、会員ならば割引もきいてお得に買えるというキャンペーン付きだ。
広告左に載っている大きなキャンドルはそれほど珍しいものではなく、いつでもスーパーで手に入れることができる。ラトビアやエストニアの墓地に行くとわかるのだが、日本人が線香を置くのと同じようにキャンドルがおいてある。お墓参りに欠かせないものであるため恒常的にスーパーにおいてあるのだ。
イベントはお堅い行事だけでは終わらず、コンサートもあった。
まとめ
ラトビアの11月11日、ラーチュプレシスの日が象徴するのは、歴史の中で幾度も自由を守り抜こうとした人々の勇気と犠牲である。普段は控えめな愛国心を示すラトビアの人々も、この時期になると街中に国旗を掲げ、夜にはキャンドルを灯し、静かにその想いを表している。
こうした伝統や風景は、現代のラトビア人にとっても決して過去の話ではなく、今も生き続ける愛国心の象徴である。11月の街が国旗で彩られる様子は、ラトビアが歩んだ道と未来へ受け継がれる誇りを物語っているのである。
